保護者の方の声
少しずつ自分を見つけることができた
息子には、中学校在学中の頃から高校進学への不安がありました。学校での学習意欲や集団生活の協調性が薄れ始めていたからです。
その中で息子は息子で苦しみ、私も学校側と息子・家族の顔色を伺いながらも時が過ぎ、公立高校入学を迎えた3年前でした。
案の定、数か月で「高校を中退したい」と本人の意思を聞き、目の前が真っ暗になりましたが主人とも相談をし、息子にあった高校を探し始め、浦和高等学園を選びました。始めて親子で浦和高等学園を訪れた時の事がつい昨日のように思い出されます。
いままで在学していた高校のイメージとは異なり、アットホームな環境の中先生方の対応が親切で学園長の笑顔と説明が、大変穏やかでした。生徒は少人数でしたが、伸び伸びと学んでおり、何より息子の親が安心していた気がし、ホッとなり、この学校にお世話になろうと親子共に決めたのでした。
その後、学園在学2年6カ月、息子は紆余曲折しながら成長をしました。
大好きな運動では活躍し、学園祭では皆と生ライブをやったり、先生方や仲間に支えられ、少しずつ自分を見つける事ができたようです。
そして、私自身も、先生方や父兄の方々から、たくさんのアドバイスを頂き、コミュニケーションを取り続け、支えられ、何より、理事長は、親としての心構えを語ってくださいました。
その事で息子の気持ちを理解しようと会話も積極的に出来るようになっていました。
浦和高等学園には、臨床心理士の先生が勤務しており、一人ひとり面談をし、潜在能力を引き出してくださり、決してあきらめませんでした。お陰で息子も、さまざまな事に気づき勇気や希望を抱けるようになったのでしょう。
そして、この春無事卒業を控え、大学進学まで決まりました。
もし、2年6カ月前、浦和高等学園に転入出来ていなかったら、息子は中学卒業のまま一生を過ごし、進む将来の選択も友人も限られてしまっていたかもしれません。
改めて、この学校に在学出来た事を心より感謝申し上げます。
娘とともにあゆんで“今日”は新たな日のはじまり
今から2年ほど前、娘は進学して間もない高校に思うように通学が出来なくなりました。特別進学クラスという、その高校では新設されたばかりの、進学実績をあげることを目的としてクラスの中にあって、毎日毎日絶え間なく出され膨大な課題との格闘、次々と仲間はずれの対象が移り変わっていくクラスの人間関係。たった35人のクラス内での成績の順位に神経を擦り減らし、クタクタになった娘は、2学期早々、「しばらく休みたい・・・」と私に言いました。
中学時代まで、殆ど皆勤、小学校から数えても欠席は5日ほど。学校に行くことは当たり前のこととして育て、我が家にとっては無縁のことと持っていた“不登校”がにわかに現実のこととなりました。「まさか・・・!」と思う一方で、「とにかく、一番つらいのは娘のはず・・・」との思いがかろうじて自分を支えました。今の娘を否定せず、ありのままを受け入れ、寄り添っていくしかない・・・。理性ではそう受け止めましたが、感情の上では「また元のように元気に通学してくれるようになってくれればいいけれど・・・」「この先、どうなるのだろう・・・」と募る心配を完全に消すことは出来ませんでした。
1週間ほどの休みを経て、担任の先生に自分が抱えていた思いを話し、娘は一応学校に復帰しました。学校側もその時の娘の状況を否定せず、出来る限りの配慮、対応を持って臨んで下さり、娘もそれに応えよう、自分に負けたらいけない。との思いで努めていたのではないかと、思います。
文化祭も終わり、中間テストが近づいてきた頃、娘はまた、思うように通学が出来なくなりました。テスト勉強をしていても、緊張は高まり何一つ頭に入らないようで、「どうしよう・・・どうしよう・・・」と半ばパニック状態でした。テストはあくまでも、自分自身がどこを理解出来てどこが分からないのかを計るための指標に過ぎないのですが、クラスの平均点、自分の得点、順位と、どうしても数字の結果に捉われてしまうため、開き直って臨むことが出来ないのでしょう。そんな娘に私は、「いいじゃない。今は学校に行くだけで精一杯ってことはよく分かってる。出来なければ、名前を書いてくるだけでいいんだよ。」と、言いました。それを聞いて娘はいくらか納得し、楽になったようでした。
しかし、娘が抱え、消化しきれないストレスは本格的な“過敏性腸炎”という病気になって表れました。朝、登校には十分間に合う時間に自宅を出ても、11時ごろ、「まだ○○駅(自宅最寄り駅)なんだけど・・・」と、娘から私の携帯電話にメールが届きます。腹痛と下痢で4時間近くもの間、ホームと駅のトイレを往復していたというのです。まともに通学出来るのは1週間のうちせいぜい3日。朝、うちを出ても学校まで行き着けず、自宅に戻ってくることもたびたびでした。主人は単身赴任中。娘の状況についてはメールで知らせ、主人も1カ月に一度は帰宅するものの、細やかなフォローまでも期待することは出来ません。
「いっそ思い切って退学させてしまおうか・・・」この状況の中で、最も苦しい思いをしているのは娘の筈でしたが、私自身もまた出口の見えない毎日に耐え切れなくなっていました。
「何回転んだっていいさ 擦り剥いた傷をちゃんと見るんだ
真紅な血が輝いて 僕が生きているってことを教えてる」
ちょうどその頃、娘の机の上に置かれていたこの歌詞カードを目にしました。娘が好きなアーティストの詩です。この詩を、今にも挫けそうな自分の支えとしているのだろうか・・・そう、思ったら涙があふれてきました。娘は必死に頑張っている。それは自分に負けたくないからだけではなく、親への遠慮、親の心配、親の期待、それを慮り、応えたいという思いもあるのかもしれない。それでも、娘が少なくとも、今はまだ耐えようと思っているのなら、私が先回りをして自分が思う方向へと引っ張ってしまうことは間違っているのかもしれない。まだ今は、一緒に耐えよう・・・。今自分に出来ることは、普通に、明るくしていること。私は、そう思いました。
それからは、その日その日だけを思い、毎日を過ごしました。先を見ず、今だけを見よう。学校に戻れる、戻れない。今日行けなったからといって、明日行けないわけでもない。昨日行けたからといって、今日行けるとは限らない。すべてを白紙にして、朝が来ればその一日のことだけを考え、行動しました。翌日、そのまた翌日も同じことを繰り返しました。
2学期を終え、冬休みに入りました。年末年始はいつも主人の実家で過ごすのですが、元旦主人と初日の出を迎えながら、「今年はどんな年になるのだろう・・・良い年だといいけれど・・・」とボンヤリ思っていました。
新年になって、ある時、娘は、「もう、ダメかも・・・・」と、ポツンと洩らしました。ピーンと張り詰めていた糸が切れたのか、何が原因だったのか分かりません。けれど、娘の中に、もう、これ以上は無理。との思いが生まれ、確かになったのでしょうか。しかし、そうは思っても、では、この先どうしたら・・・との不安も大きいようでした。
「もうそろそろ、新しい道を考えましょうか・・・」それまで折に触れて、娘が自分の思いを打ち上げ、私もご相談させていただいてきた方に、改めて娘がお会いした時、その方はこうおっしゃいました。
そうして、娘の“耐える”時期は終わり、新しい出発の時期を迎えました。
高校卒業資格認定試験、通信制高校、サポート校、フリースクール、娘の新たな道を探しながら、全国に13万人ともいわれる不登校、中途退学者のための受け皿が星の数ほどもあることを初めて知りました。一度躓いたとしても、立ち上がり、歩き始めることはさほど、難しいことではなく、チャンスは必ず用意されていることが分かって、娘も、私も、夫も、家族全員が“安心”を取り戻すことが出来ました。
娘のつらい時期を見守り“待つ”のではなく、もっと早くに“退学”を決断していれば、娘も苦しまずに済んだのかもしれません。けれど、“機が熟す“まで耐えたからこそ、次のステージへと進めたのではないかと思います。退学後も前籍校の体育祭や文化祭にも足を運び、クラスメートと交流している娘を見ていると、高校退学、転校は大きな”挫折“ではありましたが、嫌なこと、辛いことからすぐに逃げたしてのことではなく、必死に自分の弱さと闘い、力を尽くしたうえでのこと、娘の中には悔いもあり、苦い思いもあることと思います。けれど、「やるだけのことはやた」という満ち足りた思いがあればこそではないでしょうか。
ひとすじの光さえ感じられない闇夜であっても、決して明けない夜はない。立ち止り、躓き、傷ついてこそ本当に豊かで、輝くものを手にすることが出来る。おぼつかない足取りながら、一歩一歩確かに自らの足で歩んできた娘から、学んだように思います。
同じ悩みを持つお母さんへ
娘は高校一年生の二月頃から学校へいけなくなり、五月から浦和高等学園に転校し、昨年の三月に卒業いたしました。不登校は先が見えないことに加えて、何をどうしたらいいのか分からず、母親である私は悩み、苦しい日々が続きました。
今娘が再び自分の意思で歩き始めた過程を親の目から振返ることで同じ悩みをお持ちの保護者の方のお役に立てればと思います。
(1)経緯
娘は小さい頃から親の言うことを良く聞く手の掛からない子でした。
幼稚園の頃から集団行動は嫌いで明るくのびのびとした子供達とは違う一種の違和感を持っていたことは確かです。
小学校時代は二回の転校があったにもかかわらず、ごく普通に通学していましたが、中学校の二年生頃から学校生活がかなりつまらないものになっていたようです。
給食を食べない、保健室で寝ている、心の相談室の先生に相談しに行く・・・・
たくさんの兆候が出始めていました。
それでも進学を考えてか、学校にはしぶしぶ通っていましたが何が辛いのか親には理解できず、高校に行けば環境も変わるし大丈夫ではないかと思っていました。
しかし高校は進学重視の学校で本人の想い描いていた高校生活とは異なっていたのか次第に登校が困難になり、退学をせざるを得ない状況でした。
(2)浦和高等学園への転校
娘の将来を考えると絶望的になり、奈落の底に突き落とされた感じがしました。
そのとき、知り合いの方の紹介で「藁をも掴む気持ち」で学園を訪れ、私の話を理事長先生、学園長先生に聞いていただきました。
「親の敷いたレールから一旦本人を下ろして休ませなさい。
本人に期待し、重くのしかかるのを止めなさい。」(理事長先生)
「子供は心の傷を受け、重い何かを抱えているので心を解放し、
人間性の回復を図らなければいけない。親はうろたえることなく、
子供を信頼し、愛情を持ってゆったりとした接し方をしてあげて欲しい。」(学園長先生)
娘は親がしいたレールの上を懸命に走ってきたのは確かでした。
今考えるとそのレールは、親の思う幸せや理想に繋がっているもので本人の意思ではなかったのだと思います。
この頃主人が「学園に転校して精神的に休ませて、元気になってから先のことは考えればいい、少しずつでも集団生活が送れるようになるために学校に在籍していることは大切だよ」と言っていたのを思い出します。
親自身が変わることは難しいですが、子供達の心に寄り添うという意味で自分自身の心の凝り固まったところを和らげ、子供に接することが大切なのではないかと思います。
そして子供を決して諦めないということです。
「明けない夜はないですよ。」という理事長先生の言葉が遠くに思えた時期もありましたが、諦めずに接することで非常に大切な何かを手に入れることが出来ました。
先生方への感謝の言葉
一学年の二学期に入って十一月のことです。その日は部活のことで注意を受けて帰宅したのですが、非常に怒っていました。
中学校に入って今思い起こせば、環境が変わって戸惑っていたんだと思います。
その日を境に学校へ行かなくなり、ベッドから起きてこない状態になりました。
心療内科に連れて行ったのですがどうしたらいいものかと悩んでいました。
そのときに「ぱど」という雑誌にのっていた浦和高等学園へ電話をしました。
一度どのような学校かと思い、見学に行ったのですが、先生がこれまでのことを丁寧に聞いてくれたので、自分としては胸のつっかえがとれ、ペアレントサロンに一度いかがですか?と誘われ参加をしました。
ペアレントサロンへ参加し、私一人ではなく皆も同じ悩みを抱えているんだと思ったとたんに救われた気持ちでした。
先生方のアドバイスもあり、半年後には週5日も通えるようになり、お友達も出来、毎日学校に行くのが楽しいといってくれたときは親として本当に嬉しかったのを覚えています。
お友達や先生に支えられて日々成長していく姿はこれまでとは見違えるものがあります。
ここまで成長してこれたのも学校の先生やお友達のおかげであり、非常に感謝をしております。
これからは自分自身がしたいことを見つけて大人になって欲しいとおもいます。
高等部の三年間が私の子にとってかけがえのない時間であり、本当にいい三年間だったと思い起こしたときに思えればいいと思います。
色んな体験や経験、勉強を通じて成長し、人間としても幅のある、思いやりのある人に成長して欲しいと思います。
これからも宜しくお願い致します。
のんびり、ゆっくり、どっしりと構えればいいんじゃない
浦和高等学園に入学する以前は、今のような生活ができるとは到底思えませんでした。今の幸せな家庭を築けたのは、私と子どもの力だけではなかったと思います。子どもと私と先生方との連携がなければ成しえなかった、ということを実感しています。子どもは3年間高等学校を卒業したあと、専門学校で資格を取得し、元気に働いています。浦和高等学園に入学した際、学校にもなかなか行かず、生活習慣も荒れ放題だった娘を見て、先生から「どっしり構え、事を急がずに、ゆっくりと子どもを見ていてください」というアドバイスをいただきました。
当初は「そんなことができるのか…」と不安と疑問でいっぱいでした。しかし、先生の言葉を信じ、何か起こるたびにアドバイスどおりの態度で子どもに接すると、不思議と事は解決していきました。
子どもに変化を求めるのであれば、まずは親が変わらなくてはならない、ということを私たちの家庭は実体験しました。「親が変われば子が変わる」の言葉は本当にその通りでした。その結果、お互いの気持ちがより通じ合う本当の『家族』になれたのだと思います。
先生方には、本当に感謝しています。
ちょっと変わっていてもいいじゃないですか
食材にも肉があり魚があり野菜があり、また、その肉や魚や野菜のなかにもいろいろな種類のものがあります。人も同じ、十人十色。いろいろな人がいます。でも、既存の学校ではそれを同一の方向にいての枠組みに入れ、まるでベルトコンベアにでも乗せるかのように選別され、さらに枠組みから外れるものは捨てられ、同じようなものばかりを作りだそうとするように思います。
ちょっと欠けたジャガイモでも、愛情と調理次第でとてもおいしい料理になります。
さまざまなことで、愛情や手間をかけてもらえなかった子どもたちに、浦和高等学園では他校とは違う情熱で接してくれます。愛情や手間を惜しみなく注ぎ、捨てず、諦めず一人ひとりの個性を引き出し、個別対応でしっかりサポートしてくれます。
素晴らしい肉でも、それだけ食べていては飽きてしまうし、つまらない。いろいろな個性の違う食材で手間と愛情をかけて、じっくり鍋の中で味を出し合う。そして情熱という厚い炎で温め、社会の人々に「温かくておいしいね」と喜んでもらえる…。浦和高等学園は、そういう個性的で温かい人をつくってくれる先生たちがいらっしゃる学園です。











